2019年蓼科ワークショップ報告


7月5日(金)

私が鬱蒼とした杉林に囲まれた蓼科山荘に着いたのは、午後8時頃だったかと思う。紙片を貼ったボードを後ろに、財団の皆さんが広々としたラウンジのソファに腰をかけながら活発な議論を交わしているところであった。今年度のワークショップのテーマ「AIは怖くない!」への入り口として、それぞれが「AIにしてほしい」ことと「AIにしてほしくない」ことを紙に書き分けて、ボードへ次々と貼っていく。論文執筆に数ヶ月呻吟したあげくひとまずの草稿を出版社へ提出してきたばかりの私が、面白半分に「論文執筆」と書き込んだラベルを「AIにしてほしい」欄に貼ってきたが、他にあるのは「世界平和」「監視」など、すべて深刻な問題に関わる内容であった。また、興味深いことに、「育児」「翻訳」といった一部の項目については意見が分かれており、「AIにしてほしい」と思う人がいれば、絶対「AIにしてほしくない」と思う人もいたのである。その点から議論を始め、どこまでのことを機械に任せるべきか、人間独自のものとは何なのかという高度な問題へと話が発展していった。


7月6日(土)

おかずの多さから言ってもめったに食べる機会のない豪華な朝食を済ませてから、ワークショップの第二セッション「講演」に入った。今年度講師を勤めておられるのは立命館大学情報理工学部教授の李周浩(リー・ジュホ)先生。1998年度ラクーンでもある李先生は、ロボット工学、コンピュータビジョン、機械学習といった多岐にわたる分野に精通されているAIの権威である。李先生は、紛れもなく「AIは怖くない!」という持論の持ち主ではあるが、講演の内容としては、AIの歴史、機械学習の現在と基礎、ニューラルネットワークと深層学習の具体的なあり方、等々、極めて客観的でかつ具体的なものであった。完全な門外漢である私にも「わかった!」と思わせてくれるほど、明快でかつ印象に残るお話だった。

午後の第三、第四セッションとしては、「グループワーク」という形で、与えられたテーマをもとに各グループがスキットを演じるのであった。朝の講演で学んだ内容を踏まえて、AIについて自らの考えをまとめ、コンサイズに発表するのがポイントらしい。私が所属するグループは「AIが人間をなぐさめる」というテーマを割り当てられたが、他は「AIが大ヒットのラブコメディーを作るとしたら」「AIとLove」「AIと孤独」など、いずれも手応えのある課題だった。それだけあって、それらをネタに演出されたスキットも刺激的なものばかりであった。どちらかというとAIの可能性を評価する朝の講演とはやや方向性を違えて、ナンセンスをほどよく含めながら、AIの限界を巧妙に表現した名作揃いであった。

グループワークを納めてゴルフ会場へ着いたら、懇親会が始まる。乾杯音頭を合図に、お料理を贅沢に盛ったビュッフェへ皆さんが立ち所に集まった。一日の頑張りにお腹がだいぶ空いているらしい。一部の方にしかお話しできなかったというのは、こうした場に参加する私の毎回の後悔ではあるが、財団のスタッフの方と歓談するうちに、学部時代の私に中世絵巻の魅力を伝えてくれた母校の先生がお互いの知り合いであることを知った時は嬉しかった。世間の狭さに改めて驚愕しながら、財団への親近感を大いに募らせた次第である。


7月7日(日)

早朝に起き、ワークショップ全体のまとめとふりかえりを経て、帰りのバスへ。蓼科自由農園での買い物と高速道路沿いの昼食を挟んで、バスが山の中道をガンガンと走り、いつの間にか関東平野へ出かけた。新宿駅へ着いたのは、午後3時頃だっただろうか。雨がだいぶ降っていることもあり、早速駅内へ入り、簡単な挨拶を済まして解散した。

皆さんとともに三日間AIについて考えてきた私が、AIは怖いかどうか、正直言って今ひとつわからない。大学での専攻柄、千年前の人たちが自らの喜怒哀楽を書き残した記録に触れることが多い私は、「昔の人々は未来に対して余計な心配をしていたなあ」と思うことがよくある。もしかすると未来の人たちも、AIをめぐる現在の議論を振り返るときに「彼らは余計な心配をしていたなあ」と思ってしまうのかもしれない。ところが、未知へ対して不安を抱き、将来に警戒するという態度は、人間の本性でもあろう。その意味では、笑いと楽しみを共にしつつ、AIの将来に対してそうした健全な警戒心を皆で駆使してみた今回のワークショップは、決して「余計」なものではなかった。(文責:アントナン・フェレ)

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