2016蓼科旅行報告
7月1日(金)朝、少し曇った天気の中、2016年度渥美奨学生たちは、新宿から蓼科へ向かった。バスで移動している途中は雨が降っていたが、諏訪に着いたらすっかり晴れていた。今回のワークショップのテーマは、「地球市民」であった。
プログラムの中でもっとも印象に残ったのは、グループワークである。参加者は4つのグループに分かれて課題を行うことになった。僕らのチームの名前は「虹の橋」と決めた。そして、与えられた課題は2つ。第1は、与えられた情況について演劇を行うこと、そして第2はより良い世界を作るために地球市民として行うべきことについてプレゼンテーションをすることである。
我がチームの演劇の内容は、グローバル企業の進出によって、ある家庭にも影響が及び、お父さんは職を失い、その代わりに子供が家庭の生計のために学校に行かず工場で働いている、という状況をどう解決すればいいのかについてである。ところで、僕が最後に演劇をやったのは何時だったのだろう。中学生、いや小学生だったかもしれない。余りにも慣れない演劇をするのは少し恥ずかしかった。幸いに、元奨学生の方々の熱演のお蔭で演劇は盛り上がり、無事に終わった。
その後、演劇の時に浮かび上がった問題点について解決策を講じ、それについてプレゼンテーションをした。課題としてポスターの制作もあったが、残念ながら僕は絵が得意ではない。ところが、チームのメンバーの中には、いいアイデアを出せる人、様々な意見をよくまとめる人、絵の演出が得意な人など、様々な人がいた。各自の長所をもって人の短所を補う作業は順調に進められた。我がチームは、「虹の橋」という名前を生かして「絶望の輪」が地球市民の活躍によって「希望の虹」に変わる様子を見せながら発表を行った。このように課題を行う中で、世界各国で起きているグローバル化に伴う問題も個々の地球市民が力を合わせれば、問題を解決できる大きな力になれることを感じた。
しかし、疑問に感じたこともない訳ではない。それは、ワークショップの最初の宮島喬先生の基調講演でのことである。先生は、欧州移民研究がご専門だが、我々のためにお話の内容を東アジア地域にも広げ、地球市民について考える話題を提供してくださった。その中、日本の地球市民の例として2人の日本人を挙げられたが、その一人は東郷茂徳であった。彼は、朝鮮陶工の末裔で、本名は朴茂徳である。しかし、帝国主義の理念が高まっていた当時の日本で、彼は朴茂徳ではなく東郷茂徳を名乗ることで日本の官僚、政治家として活動することが出来た。その時代に生きていた東郷茂徳は、果たしてワークショップで議論している「地球市民」として働けたのか、それとも「帝国主義日本の官僚」としてしか働けなかったのか。私にとっては、すぐに彼が「地球市民」として働いたという結論に達することはできなかった。
もう一つは、講演の中で接した「日本人は、終戦から70年代まで在日朝鮮人以外に外国人と接する機会がなかった」ということばである。在日朝鮮人は果たして外国人であると言い切れるのか。戦前及び戦中には、朝鮮人は日本人と同じく日本の国民と看做され、戦争に動員されている。ところが、戦後になると日本はこの朝鮮人を排除する論理で、外国人として扱ったのである。言い換えれば、在日朝鮮人という存在は、帝国主義日本の「負の遺産」であり、その問題は未だに進行形でもある。上記のことばにはその問題についての意識が充分読み取れないように思う。この問題について認識せず、排除する論理を踏襲したまま「地球市民」について議論を進めても、どれほど有意義な議論を導きだせるのだろうか。以上が私の疑問であった。
一方、ワークショップの他に印象に残ったことも多い。例えば、ご飯が美味しかったことが挙げられる。朝ご飯も、懇親会のバイキングも全て美味しかった。朝ご飯を食べるときは、勿論おかずも美味しかったが、特にご飯が美味しかったので、いつもご飯のお代わりを2〜3回もした。バイキングの時に食べた料理の中では、蕎麦が最も印象に残った。程よく歯応えのある麺に汁が絡むと蕎麦の風味が増す。さすが信州の蕎麦は旨いと感じた。
そして、7月3日(日)には全てのプログラムが終わり、東京に戻ることになった。東京は、この3日間の間にだいぶ蒸し暑くなっていた。そして、私たちはその暑さの中に入り、各々の日常に戻った。
当日の写真
(文責:洪 性ミン)