渥美奨学生の集い2007
2007年度の「渥美奨学生の集い」は、11月2日(金)午後6時より、渥美財団ホールで開催されました。今年の特色は、本年度奨学生、元奨学生、財団役員に加えて、鹿島建設の関係者や鹿島家の親戚の方々も参加したことでしょう。というのも、今年は、渥美財団の選考委員で名古屋大学教授の平川均先生が「鹿島守之助とパン・アジア主義」というテーマのご研究の成果を発表してくださったからです。ご講演の後、渥美奨学生との活発な質疑応答があり、議論はそのまま懇親会に至り、参加者全員にとって、非常に有意義で楽しい集いとなりました。
渥美伊都子理事長の父、鹿島守之助博士は、戦後、鹿島建設を世界一の規模の会社に発展させた昭和期を代表する卓越した実業家として知られていますが、同時に外交史研究者あり、政治家でもありました。研究者として多数の出版物を残し、日本の外交研究とそれに関する活動にも多大な貢献を果しましたが、守之助が外交官としてドイツに赴任し、パン・ヨーロッパ思想を提唱していたクーデンホーフ・カレルギー博士に出会った1920年代後半以降、生涯を通じて、独特なアジア主義者として「アジア連盟」あるいは「アジア共同体」の理想を追求した人物であったことはあまり知られていなかもしれません。守之助が1973年に、生家・永富家の一角に「わが最大の希願は、いつの日にか パン・アジアの実現を見ることである」と刻んだ碑を建立していたことを知れば、意外に思う人がほとんどでしょう。平川先生は、守之助の国際政治や外交に関する膨大な著作や政治活動の軌跡を辿り、彼のアジア主義はどのような思想であり、その思想に駆り立てたものは何か、彼の思想が「大東亜共栄圏」によって象徴される日本のアジア侵略の試練とどう関り、その試練をどう潜り抜けてきたか、彼の構想が戦後むしろ省みられないできたのは何故かなどを、パワーポイントを使いながらわかりやすく説明してくださいました。そして、東アジア共同体への関心が21世紀に入って急速に高まっている現在、鹿島守之助のパン・アジア論をもう一度正しく評価すべきではないかと結論づけられました。
質疑応答では、今年度奨学生からの「当時のロシアはそのように脅威を感じる必要はなかったのではないか」「日本の知識人が戦争をどう乗り越え、戦後どのように対応していったかは大きな課題なのではないか」「インドを含む旧植民地の独立戦争支援ではなかったが、関心はあったのではないか」「鹿島氏は最晩年になってアジア太平洋共同体からパン・アジアへ戻ったが、その考え方は現在反映されていると思うか」などの質問に対して、平川先生は丁寧にお答えくださいました。
後半の懇親会では、参加者全員が美味しい中華料理を楽しみ、歓談と交流の宴は例年より遅く午後10時ころまで続きました。
文責:今西淳子