■ 日本の教育の国際競争力について思うこと ―――――――――
いまにし じゅんこ
今西 淳子
渥美国際交流奨学財団常務理事
――――――――――――――――――――――――――――――
留学生支援団体の協議会などで日本の留学生問題を検討しているうちに、日本の教育についての考えと発表する機会がありました。渥美財団年報の誌面をお借りして、さらに加筆し掲載させていただきます。
* * *
(1)日本の教育は国際社会で競争できる人材を育てているか
日本の小学校に子供を入学させた中国人留学生が、「日本の学校は何も教えないじゃないですか。」と言う。実際、中学2年生の娘を持つ別の留学生は、「今うちの子が中国へ帰っても、高校さえ入れないでしょう」と。中国と韓国で、今、子供達は非常に激しい受験競争の真っ只中にいる。それは数十年前の日本の姿と似ているかもしれない。現在の日本の子供達に比べると、漢字文化をもつ隣国の子供達ははるかに激しい競争を戦っている。受験戦争の是非は別として、日本人は隣国の次世代がものすごい勢いで勉強していることを知るべきである。
私の末娘が通う文京区の公立小学校に、韓国人の子供が転校してきた。彼は、とても礼儀正しく、しっかり勉強し、日本の学校がのんびりしすぎていると感じたが、学校側にとっては何の問題もなかった。ところが、今度はアメリカ人の父親を持つ子供が転入してきた。彼は、じっと座っていない、体育の時にはどこかへ行ってしまう、給食を食べない。最初、日本語がわからない時には、先生やまわりの子供達まで片言英語で対応するようになった。(韓国語や中国語の場合はそのようなことは起こらない)そのうち、日本語がわかるようになると、どうして体育の時は皆で一緒に同じことをしなければならないのか、どうして給食では皆が一緒に同じものを食べなければいけないかと質問する。この子のおかげで、クラスはパニックになってしまった。個人面談の時、私は先生に「どうして皆一緒に同じことをしなければならないのか、一度話し合ったてみたら良いのではないですか」と申しあげると「そうですね。では、まず私が考えてみます。」との答え。このようなこと、今まで考えたこともなかったのかもしれない。また、私が「クラスの子供達にとっては、とても良い経験だと思います。この子達は21世紀になって、彼のような人たちと、国際舞台で勝負しなければならないのですから。」と申しあげると、しばらく考えてから、先生は「とても勝てませんね。」とおっしゃった。
中国や韓国からものすごい勢いで追われているというのに、日本は「ゆとりの教育」で、既に充分ゆとりある教育内容をさらに削ろうとしている。かと言って、欧米の個人主義の文化の中で育った主張の強い人々に対抗できる人材を育成しようとしているとも思えない。どちらの方向性もなく、ただ混乱に陥っているように思う。世界情勢から見れば、「ゆとりの教育」をしているゆとりなどないのだ。たとえ受験を取り去りあらゆる競争をなくしたとしても、「自主性」は自然に生まれるものではない。「自主性」を引き出すには、親や教師のかなりの力量と、大変な努力が必要だ。それは新しい教育法の確立と教育者の育成の問題なのだ。現在、日本の教師の中に、この新しい教育ができる人材がどれほどいるのだろう。4人の子供達を育て、公立・私立の4つ学校を経験したが、子供の能力を引き出す教育のできる教師は、少数派であるという印象を受けた。クラス分割による小人数制、TT(教師2人で授業する)などなど、新しい制度は試みられている。しかしながら、制度は新しくても、各教師の教育法が改められ、「自主性」を引き出す技術と能力が向上しなければ何もならないのである。少子化により、教師の平均年齢が上がる一方なのも、教育改革を妨げるものであるかもしれない。また、新しい教育の必要性を社会に啓蒙する努力ももっと必要であろう。
娘の小学校の授業参観に行った。教師は、たくさんの質問を子供達に問いかける。でも、教師の頭の中には、もう定まった答えが用意されており、子供達はそれを当てなければいけない。教師と同じならば「正解」。教師の考えと違ったことを言えば「間違い」。子供達は、なかなか手を挙げて発言しない。当たり前だ。自分の意見を言っても、それが教師の期待する答でなければ全然取り上げてくれないのだから、言うだけ無駄だ。子供達が自分で考え、自分で判断し、自分の意見を発表させる教育をしよう、という目標は、今やそう珍しいことではなくなった。しかしながら、本当にその技術と能力のある教師を育てているのか、どうもおぼつかないように思える。今必要なのは、新しい教育をどのような方法で行ない、さらにそれをどのように現場の教師に教えていくかという技術論なのだ。
(2)日本の学校に国際競争力はあるか
私の長女は中学2年から、イギリスの学校に留学することにした。彼女は幼稚園から大学まで一貫性の私立校にいたが、小学校を終えるころ、このまま親の決めたレールを走るのではなく、もう少し自分の力を試してみたいと思った。彼女の選択枝は、日本に居て大学受験をするか、イギリスの学校に留学するかだった。2つの可能性を比べると、夜遅くまで塾通いをして1点を争う日本の受験競争よりも、英語が身につき、論理的に考え表現する訓練を教えこまれるイギリスの教育の方が、どう考えても良いと判断した。家族と離れて暮らすことは、マイナスも大きい。しかしながら、1年に100日はイギリスの学校が休みで日本に帰ってきているし(昔に比べれば飛行機代も非常に安いし)、国際電話も毎週かけてくるし(昔に比べれば電話代も非常に安いし)、電子メールでほとんど毎日連絡しあっている(これはほとんど無料)。現代の留学は、数年間家族や友達に会わない一大決心をして海外に渡った往年の留学とは事情が全く違うのである。
中学受験を終えたばかりの小学校6年生の異常なまでの知識力が話題になり、テレビのクイズ番組の特集まであった。そのような番組で、超一流中学に入学した子供達に、司会者が「あなたはどの大学に行きたいの?」と聞いた。今の子供達は、「僕はハーバード大学」「私はオックスフォードに行きたい」と言うのである。欧米の大学ランキングが日本語に訳され出版されている。グローバル化の時代には、大学にも国境はない。日本人の優秀な学生は、どんどん日本を離れ、世界のトップ校をめざすだろう。同様なことが世界中の国で起こるだろう。中国の子供達も韓国の子供達も、欧米諸国の子供達も、世界の中で一番自分に合った学校、一番自分の将来に役立つ学校をめざすようになる。その時、優秀な学生達に選ばれる日本の大学はいくつあるだろうか。
ある教育コンサルタントは、日本の大学が欧米の大学と安易に交流協定を結ぶと、日本人学生が大量に海外に流出してしまい、少子化でただでさえ苦しい日本の大学はさらに経営難に陥るだろうと予測する。現在でも、大学間交流では、欧米の大学に行きたい日本人学生の数が、日本の大学へ来たい欧米人学生よりも多く、上手くいかないことが多いと聞く。日本人学生が欧米に流出し、その空白に欧米に行けなかったアジアの学生が入り込むという図式ができるのだろうか。
既にヨーロッパ(EC)で進められているような、お互いの言語や文化を尊重する対等な関係を基盤にして、若者を大量に相互交流させる壮大な計画は、アジアには無理なのであろうか。
(3)国際化と情報化と教育
子供が荒れている、学級が崩壊している、と騒がれている。最近は、学校では対処しきれなくなり、家庭が悪者扱いされているようだ。文部省が国民の「心」にまで入り込んでくる。現在の日本の教育の様々な問題は、この激しく情報化する社会に子供達の方が先に適応しているのに、親も教師も適応が不充分なために生じたギャップが大きすぎるために起こっている現象だと私は思う。その兆候は、ずっと前からあったはずだ。今から13年前、私の長女が幼稚園にいた時、ベテラン先生が園児の大きな変化について話してくださった。「昔は、先生が自分の靴を下駄箱に入れると、何も言わなくても、子供達が皆それに従った。でも少し前から、先生が『靴は下駄箱にしまいましょう』と言わなければ、子供達はそうしなくなった。今では、一緒について下駄箱にしまわせないと、そうできない子がいる。」というのだ。その原因について、「テレビなどでたくさん情報がはいり、子供の反応が昔とは全く違ってきている。」と、既に30年近く幼児教育を研究していたその先生は分析された。
今必要なのは、教育荒廃の原因捜しではない。なぜなら、加速的に進行する情報化社会は今までに人類が経験したことがないのだから、原因の追求は意味がないばかりか、犯人に仕立てられた人は、教師にしろ親にしろ、自分を責め、自信をなくすばかりだ。今必要なのは、この情報化社会の中で、子供達を育てていくのにはどのようにしたら良いのかを検討することだ。言うまでもなく、それは、どのようにして子供達にコンピューターの使い方を教えるかという問題ではない。
ありあまる情報にさらされている現代の子供達は、自分の家の中にいても、昔とは比べられないほど多様な文化や価値観にさらされているのである。この多様性についていけないのは、むしろ画一的な社会の中で育ってしまった大人であり、このギャップが様々な問題を引き起こしているのではないか。こう考えると、情報化社会への対応は、国際化社会への対応と通じるものがある。多様な情報の中でいかに自分の価値観を確立するか、いかに自分の価値観を主張するか、そしていかに異質なものと共存していくかが問題なのである。今、教育に必要なのは、子供達にこの能力を与えることだ。
上記幼稚園の例のように、従来と同じ方法では、情報化社会の子供達には伝わらない。日本に来た留学生がよく、大学にはいっても何をすれば良いのかがはっきりわからない、マニュアルもなく、先生も教えてくれないと指摘する。日本の「常識」は、外国人には通じない。これと同様に、高度な情報社会で、様々な価値感に接して育っている子供達にも、大人の「常識」は通じない。これからは、もっと言葉を使って、もっともっと丁寧に説明するプロセスが、教育にも求められているのではないか。「常識」や「以心伝心」を期待して説明をしなかったり、「親の背中を見て育つ」と会話を大切にしない態度は、親や教師の怠慢である。子供に「言葉」で話しかけ、子供の考えを「言葉」で充分にひきだす努力は、多くの日本人にとって得意なことではないかもしれないが、今やそんなことを言っている余裕はないのである。
最後に、このような教育法の改革は、決して集団主義から個人主義への流れではないことを確認すべきであろう。自分と自分の周囲との「調和」をはかることの大切さは、むしろもっと強調されなければいけない。それは環境教育にも繋がっていくはずである。しかしながら、「調和」は「あたりまえ」で、「皆がそうするからあなたもしなければならない」のではなく、何故「調和」が大切かを充分話し合い、子供達に納得させなければならない。皆で一緒に食べる給食が悪いのではない。給食の良いところはたくさんある。給食について話し合い、皆が納得した上で給食をすればよいのである。このプロセスを経るならば、教師の給食指導も自ずと違ってくるのではないかと思う。
現代社会においては、情報を制限し、ひとつの価値観で支配することはもはや不可能だ。日本の教育は、画一社会で育った親や教師が、情報社会で育っている子供達を、多様化に適応できるように逞しく育てて行かなければならないという非常に難しい状況に陥っているのである。
*この小論の最初の2章は、1999年1月12日に国際教育推進機構のセミナーで発表した内容に基づく。教育の原点を求める研究会の機関誌「アガトス」に投稿中。