音楽と研究を極める

ワン ダン
王 旦

出身国:中国
在籍大学:東京藝術大学大学院音楽研究科

博士論文テーマ:中央アジア及び東ヨーロッパに於けるマーカムの影響を受けたヴァイオリン音楽

 

 筆者は1982年中国の音楽大学のヴァイオリン科を卒業し、交響楽団へ就職してからも、自分の音楽と研究を極めたいという気持ちが常にあった。交響楽団の一演奏者としてだけではなく、むしろ研究、それも大変興味を持っていたシルクロード音楽の研究をしたいと考えた。中国国内では、研究資料が不足し、特にシルクロード音楽に関する資料と研究論文は極めて少なかった。1980年代初期、中国では文化大革命が終わったばかりで、その残響はまだ多くの方面で残っていた。 出版界においても、研究においても、ほんの僅かな外国の資料しか見ることができなかった。たとえ外国の優れた研究者と著書の情報を得ても、その資料を入手することは不可能だった。そういう状況の下で筆者の研究したい気持ちは高まり、海外への留学を強く決心した。留学に対して、クラッシック音楽を勉強する若者は、だいたい欧米の国々を選ぶ者が多かったが、何故筆者は日本を選んだのか、それは不思議な縁があった・・・。

 まだ小学校3年生の頃、いつも父から祖父のことを聴いていた。1920年代から祖父は国民党政府大蔵省の仕事で長年、武漢に居た。そこで祖父は沢山の日本人の友人を得た。その日本の友人たちから数多くの日本の工芸品や生活用品を頂いた。それらは後に1966年からの文化革命の際、「抄家」された。(「抄家」というのは、文革中の専門用語で、全財産を没収すること。当時父は「反動的知識人であるため」殆どの物を紅衛兵に抄家された。)しかし、紅衛兵たちが抄家した時に漏れた物は、今でも父が大事に所蔵している。中には日本の弓と矢の収納箱、また当時父がくれた子供用の革靴と帽子があった。これらの物は、当時子供である筆者の心に、日本は近い国でありながら遠い異国の印象を与えた。

 筆者の幼年期の夢は、船と飛行機のエンジニアになることだった。ところが、文化大革命の最中であったため、共産党の政策に従い、都市にある高校の卒業者の行く先は、農村で肉体労働をすることしかなかった。それから逃げるために、何か専門を身につけたら農村の行かなくても良いと考え、楽器を習うことにした。(楽器ができると、歌舞団やオーケストラに入れるため、農村に行く必要がない。)勿論、父からの影響もあった。(父はヴァイオリニストで中国西安音楽学院の教授。)以上の理由で楽器を習い始めたのである。ほかのヴァイオリニストより筆者がヴァイオリンを始めたのは遅く、1972年12歳の時だった。当時西洋のヴァイオリン教科書は全面的に禁止されており、ヴァイオリンを練習するためには、中国の古い民謡か、共産党をたたえる革命歌曲しかなかった。

 大学時代に、新聞とテレビから少しづつ日本の情報が目と耳にはいった。その頃は日本からの情報があれば必ず注目し、夢中になった。例えば、日本の歌曲「赤とんぼ」「瀬戸の花嫁」。映画の「砂の器」。音楽家の小澤征爾、江藤俊哉。音楽団体のN響、読売響。大学の早稲田大学、東京大学、桐朋学園、東京藝術大学などが報道されたこともあった。

 周知のように、日本には出版物も数多く、情報も溢れ、また優れた大学の数々は世界一であり、従って研究には最適な環境だと思われる。音楽と音楽教育の分野でも世界の先進国であり、国際音楽コンクールの参加者と入賞者も世界一である。

 以上の理由で、筆者は1988年6月に、オーケストラの仕事を辞めて、不安と希望を抱きながら日本留学にやってきた。