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Lamsal Bikash “Ambiguity of Japanese Language”
2017年6月22日 15:30:01
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SGRAかわらばん678号(2017年6月22日)
【1】エッセイ:ラムサル・ビカス「日本語のあいまいさ」
【2】コラム紹介:稲賀繁美「大学の再定義―巣立ちの礎として―」
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【1】SGRAエッセイ#538
◆ラムサル ビカス「日本語のあいまいさ」
人間はどんなに勉強しても、どんなに学習しても完全ではない。どんな分野であれ、完璧な人間はいないだろう。日本語に限らず、どんな事を習っても、その国の人のように理解するのは難しい。些細な事でも理解できない言葉も少なくない。日本語の中で私を最も悩ませるのはあいまいさである。そこで、このような日本語のあいまいさについていろいろ考えてみた。
あいまい表現とは直接ではなく、言いたいことを少し言い換えて(婉曲に)相手に伝えることである。翻っていえば、基準値が明確ではないため、相手を紛らわせる言葉ともいえる。例えば、感謝の気持ちを表すときに「どうも」という言葉をよく使う。「ありがとう」とも表せる言葉であるが、何かを謝るときの「ごめんなさい」も表してしまう。「すみません」も同様である。感謝の場合でも使え、また謝罪の時にも使える。一体何をしたいのだろう!謝っているのか、それとも礼を言っているのかを考えさせる表現である。
「結構です」もよく使われる。相手からご馳走になったとき「結構です」と言うのをよく見かけるが、これも2つの意味を表す。「おいしい」と「いりません」である。また、「ちょっと」も日本人がよく使う、とても便利で使いやすい言葉のようだ。しかし、外国人で、慣れていない人にとっては大変難しい。よく耳にするのは、「お食事は?」と聞かれ「今日はちょっと」という返事。これはどう考えても、わかりにくい。もう食べたのか、それとも食べてないのか、食べる気持ちがないのか、で惑わされる。
ここで自分の経験を挙げてみたい。日本へ来たばかりの私は、食事をしようと思ってレストランを探していた。片言の日本語を話せるレベルだったころのことだ。ラーメン屋で「ご飯お替り自由」と書いてあった看板を見て入店した。ラーメンを注文して、最後に、店員に「ご飯はいかがなさいますか」と勧められ、私は「ご飯はちょっと」と答えたが、30分たってもご飯が来ない、店員に聞くとご飯は頼んでいないことになっていた。その時の私は、ご飯を少なめにしてもらいたかっただけなのに、結局、ご飯にありつけなかった。
文法上は不備な言語構成であるが、日本人同士はこれで充分相互の意思疎通ができているのであり、それで不自由さを感じないのである。すなわち、外国人に会うことがほとんどなかった日本人社会では、このような会話でまったく問題がなく、この日本語で充分であった。
日本語のあいまいさとは日本の言語文化でもあり、知らず知らずのうちに使用してしまう場合も多い。提案書、設計書、報告書、さまざまな文書にあいまい表現は入り込み、技術提案書でよく出てくるあいまい表現もある。たとえば、進捗率70%と言った場合、どこまで進んで70%かは人や状況によって異なる。一見定量的な表現ではあるが、基準値が明確でないあいまい表現が圧倒的に多い(単位不明、期限が不明、対象範囲が不明、暗黙の了解)。
あいまい表現を分類しようにも書き切れないほどである。例えば、程度を表すあいまい表現は、すごく、適当、適切、ちょうど、かたい、だいたい、およそ、多く、きれい、~にくい(難しい)、少々、相当、少し、しっかり、あまり、一定の、きちんと、ほぼ、当分、はっきり、よく、大した、やや、などなどである。それに、調整に使うあいまい表現は、ちゃんと、しっかり、ただし、とにかく、~はず、~さえ、~ごとに、などがある。推測には、あれ、一応、くらい、だいたい、たいてい、およそ、~ようだ、~らしい、~だろう、などという言葉がある。まだまだ数えきれないほど、あいまいさを表す言葉は多い。
ここでは私の経験を生かして日本人と外国人の違いを述べてみたい。日本人は言語表現に際して、断定的にものを言うのを嫌う民族である。日本人はある現象にたいして、言語表現の文末に、意識的にわざわざ断定を避けて、それは「・・・でしょう」や「・・・であろう」といったように、あいまいに表現することが多い。自分では内心「これはこうだ」と思っていても、断定的な表現をわざとしないように「気をつかって(?)」「こうはこうであろう」と表現する。
その点、外国人の多くは、何事においても自分は「こう考える」とか「こうである」というように断定的に表現する。比較してみると、日本人は何事においても、自分の見解を述べるときには、断定を避けてあいまい表現に終始する態度をとるように見受けられる。この日本人のあいまい表現に対して、外国人はたいへん奇異に感じると同時に、自分の考えをわざと隠して述べない「ずるい」民族であると思う人さえいる。
私は、日本人の話し方に疑問を持っていないわけではない。しかし、このような紛らわしくて、わかりにくいあいまいさこそが日本の文化である。これによって日本人は日本人らしく表現することができる。日本人は、できるだけ争いを避けて平和に暮らしていこうという考え方の持ち主が多い。初めは面倒くさいと思ったことも、慣れていくうちにいつの間にか私も、あいまいな表現を使えるようになった。あいまいさがあるからこそ現代の奥ゆかしい日本文化が成り立っているような気がしてならない。
<ラムサル ビカス Lamsal_Bikash>
渥美国際交流財団2016年度奨学生。ネパールのトリブバン大学科学技術学部物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生として来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を卒業。2017年3月に足利工業大学大学院情報・生産工学専攻より博士号を取得。現在は鹿島建設株式会社技術研究所先端・メカトロニクスグループ研究員。
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【2】コラム紹介
SGRA特別会員で国際日本文化研究センター副所長の稲賀繁美様が、京都新聞のコラムにアジア未来会議のことを書いてくださいましたのでご紹介します。
◆稲賀繁美「大学の再定義―巣立ちの礎として―」
(『現代のことば』京都新聞夕刊1面 2017年4月26日)
http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/pdf/170426gendainokotoba.pdf
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★☆★SGRAカレンダー
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◇第4回アジア未来会議「平和、繁栄、そしてダイナミックな未来」<論文募集中>
(2018年8月24日~8月28日、ソウル市)
http://www.aisf.or.jp/AFC/2018/
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