SGRAメールマガジン バックナンバー

Olga Khomenko “Soviet Period and My Childhood”

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SGRAかわらばん583号(2015年8月27日)

(1)論文(要旨)募集<締め切り間近!>

(2)SGRAエッセイ:オリガ・ホメンコ「ソ連時代とこどもの頃」
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(1)締め切り間近!

○第3回アジア未来会議「環境と共生」の奨学金・優秀論文賞の対象となる論文(要旨)の投稿締め切りは2015年8月31日です。(奨学金・優秀論文賞対象外の一般論文の投稿締め切りは2016年2月28日です。)詳細は下記リンクをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/AFC/2016/call-for-papers/

○第6回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」の投稿(要旨)締め切りは2015年9月20日です。詳細は下記リンクをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/combination/taiwan/2015/4439/

皆様の投稿をお待ちしています。

(2)SGRAエッセイ

*8月は、以前に配信したエッセイの中で、より広い読者に読んでいただきたいものを再送しています。

◆オリガ・ホメンコ「ソ連時代とこどもの頃」

「ソ連時代はどうでしたか?覚えていますか?」と最近よく聞かれる。たぶん大変な思いをしていたという答えを想定しているのだろう。しかし、私にとってソ連時代はこどもの頃だったので楽しい思い出が多い。政治に全く関係ない思い出。自分の国の政治体制が何か特別なものであるという意識は、ある時期までなかった。

それはブレジネフ書記長が亡くなった時のことだった。私はまだ小学生で10歳だった。共産党の一番偉い人が亡くなったので、テレビでは「白鳥の湖」のバレエや、哀しいクラシック音楽のコンサートばかり3日間連続で放映していた。そして、学校で、身近な人が亡くなった時と同じような追悼の時間があった。私は丁度その1年前に祖母を亡くしていたので、とても辛くて、「きっとブレジネフさんも誰かのおじいちゃんなので、家族は悲しんでいるでしょう」と悼んだのを覚えている。こどもたちは国のトップの人をそのような意識でとらえていたから、その点ではその存在は近かったかもしれない。

その3日間は授業がなくて、学校ではブレジネフさんの著書を読んでいた。そのようなある日、友だちと2人で学校から帰る道で、指導者が亡くなったことが話題になった。普通は小学生の話題に上がらないことなので、同級生が「ブレジネフさんが亡くなってもあまり悲しくない。よくない人だった。戦争中に指導をしていたスターリンもあまりいい人ではなかった。たくさんの人を死なせたから」と言った時、私はその言葉にとても驚いた。

「えっ?指導者なのに?あり得ない。どうしてそう思うの?国の指導者なのに」と戸惑って聞き返すと、「両親がそう言っているから、家で、誰も聞いてないときに」との返事だった。私はとてもショックを受けた。ブレジネフもそうだが、博物館や学校のあちこちに写真を飾っているスターリンまで、まさか「よくない人」と思えなかった。歴史の授業では「戦争中には『愛国のために、スターリンのために』と叫びながら、自分の体に爆弾を巻いて戦車に体当たりして死んでいった若者がたくさんいた」とも教えられた。国民の多くがそれほどに指導者を尊敬していたと教えられた。歴史教科書からお祭りのポスターまで、スターリンは国民の「父」だと語っていたにもかかわらず、まさか、「国民を死に追いやった」という表現で友人が話すとは信じがたいことだった。

この出来事が起きたのは、1982年の、もうキエフの町の中の木々の葉も落ち、町全体がグレーの霧に包まれた11月のことで、寒い時だった。家に帰るとその同級生が言ったことについてしばらく考えた。「あり得ない」としか思えなかった。夜になって家に戻ってきた両親にその話を伝えると、彼らはお互いの顔を見交わすだけで何も応えなかった。こども心に「おかしい」と疑念が残った。わが家は特に反体制ではなかったが、こどもたちと政治的な話をすることはなかった。

その日からこの社会には、口に出せなくても様々な考えを持っている人がいると思うようになった。そして同級生の家族、またその家庭で話されていることが「何か少し違う」と思うようになった。その3年後の夏に成績優秀なこどもたちが選抜されて1ヶ月間キャンプ生活をした。そこでは食事や遊び以外にいろんな講義があった。今で言う「合宿」に相当する。その講義には数学、歴史、絵画などの教科以外に「政治事情」もあった。その内容の大半は「アメリカはいかに怖い国か」だった。

ある講義で、アメリカの国旗やアメリカのシンボルをTシャツにつけている人は、自分の国を裏切っていて愛国心がないという話題になった。私はハッと気付いた。その時たまたま、買ってもらって得意になってはいていたジーンズのポケットにアメリカの国旗が付いているのだ。「どうしようか」と慌てた。それで静かにTシャツの裾をズボンから取り出し、ジーンズの上にかけた。その旗が見えないように。ズボンだけで判断して私が裏切りものと思われたら困ると思った。幸いに誰も気づかなかったので安心した。今から考えると、服は人間のアイデンティティの一部であり、服装だけで人間の思想性を判断するというのはちょっと単純すぎると思う。だがその当時、「外国」との関係は微妙であった。

両親は毎晩、テレビで9時のニュースを見ていた。私は寝る前にテレビがある部屋の近くをうろうろして、ニュースを聞くようにした。国際ニュースが一番気になっていた。なぜなら、ある時期、よくアメリカの地図が映され、この国はソ連への核爆弾を準備していて、近々わが国に落とすだろうと伝えていたから。アメリカという国を全く知らないにも関わらず、こどもの私は毎晩不安になった。怖い国としか思えなかった。アナウンサーが伝える冷静で硬く笑みのない声を今でも覚えている。

15年後、日本留学中にアメリカからの留学生数人と仲良くなった。最初はやはり昔形成された先入観をぬぐい去ることができず、友人ながら用心深く付き合い始めた。「アメリカからきている人たちは、たぶん違う。注意しなければ」というふうに。共同の台所に行くと、彼らは朝食にピーナッツバターという不思議なものを食べている。また洗濯をするときに服とスニーカーを一緒に洗うという、とんでもないことをしている。また人生観について話すと「quality_of_life(生活の質)」という不思議な言葉をよく使っている。

でもこのような違いを除けば他にはあまり違いがなくて「普通の若者」だった。ある日のこと京都の嵐山で一緒にバーベキューをしていた時、こどもの頃のアメリカの怖いイメージについて話すと、同年代のアメリカの女子学生が「私も同じようなことを思っていた。毎日ニュースを見て、ソ連が爆弾を落とすのでは、と怖かった」と。とても不思議な気分だった。鏡の裏にいる人から同じことを言われたような気がした。そのときに初めてプロパガンダの意味をよく理解できた。

だがそれを知ったのはずいぶん後の話である。こどもの頃は外国についてほとんど何も知らなかった。ただ本を読むのが大好きだった。その頃、父から誕生日に冒険小説の全集をプレゼントされた。外国作家中心の12冊の本で、全部纏めて出版されたのではなく、出版されると家に届けられた。鮮やかなカバーの色は毎号違っていた。本棚に並べてみると虹のようだった。

それを少しずつ読み、まだまだ外国へ行けなかった時代、しかもまだこどもだった自分は、頭の中であちこちに旅をしている夢をみた。ベッドに座って、本から目を離して窓の外を眺めると、そこにはスペインの町、ロンドンの時計、モロッコの道、それからアフリカのジャングルが見えた。全部虚構の世界で、私にしか見えない世界。でもいつかそこに必ず行けると信じていた。どこからそんな確信をもったかよくわからないが、「直感」であり「信念」でもあった。我に返ると手にきれいな本があるだけ。当時、就寝前の短い時間、まるで「幻想」の世界に生きる夢見る少女だったかもしれない。

ブレジネフの死から6年経つと、その話をした同級生は、自分はユダヤ人だと告白してイスラエルに亡命してしまった。ピオネール(共産圏の少年団)だった私たちはコムソモール(共産党の青年組織)に入ったが、その2年後にはコムソモールもなくなった。キエフ大学に入学すると、2年生の時に学生運動が始まり、大きな市民デモに発展して当時の首相は辞任させられた。

その半年後にウクライナはソ連から独立した。そしてそれまで知らされなかった様々な歴史的事実が明るみに出るようになった。それでブレジネフやスターリンの人生、また1933年の「大飢餓」で亡くなった多くのウクライナ人のこと、殺されたたくさんのウクライナの作家や詩人のことを知るようになった。その時、ブレジネフが亡くなった時に同級生とした話やその時の信じられなかった気分が甦った。やはり、知っている人は知っていた。例えこどもの時代であっても。

<オリガ・ホメンコ Olga Khomenko>
キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍しながら、キエフモヒラアカデミー、国立大学OIDEで教鞭もとっている。2005年に藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行。2014年には、SGRAかわらばんで発表したエッセイ等を纏め、エッセイ中「ウクライナより愛をこめて」を群像社から出版。

エッセイ集の詳細は下記リンクをご覧ください。
http://gunzosha.com/books/ISBN4-903619-44-6.html

*本エッセイは、2013年にSGRAかわらばん327号で配信したものを、著者の承諾を得て再送します。

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★☆★SGRAカレンダー
◇第4回SGRAスタディツアーin福島<参加者募集中>
「飯館村:帰還に向けて」(2015年10月2日~4日福島)
http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/2015/4363/
◇第8回SGRAカフェ<ご予定ください>
「ジェンダーについて考える必要性(仮)」
(2015年10月24日東京)
◇第50回SGRAフォーラム<ご予定ください>
「青空、水、くらし-環境と女性と未来に向けて」
(2015年11月14日北九州市)
◇第9回SGRAチャイナフォーラム<ご予定ください>
「日中200年―支え合う近代(仮)」
(2015年11月22日北京)
★☆★論文(要旨)募集中
◇第6回日台アジア未来フォーラム(2016年5月21日高雄)
「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」
http://www.aisf.or.jp/sgra/combination/taiwan/2015/4439/
投稿締め切りは2015年9月20日です。
◇第3回アジア未来会議「環境と共生」
(2016年9月29日~10月3日、北九州市)
http://www.aisf.or.jp/AFC/2016/
奨学金・優秀論文賞の対象となる論文(要旨)の投稿締め切りは2015年8月31日です。
一般の論文・小論文・ポスター(要旨)の投稿締め切りは2016年2月28日です。
☆アジア未来会議は、日本で学んだ人や日本に関心がある人が集い、アジアの未来について語る<場>を提供します。

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