SGRAメールマガジン バックナンバー
Sun Junyue “Shanliren (Part 1)”
2015年8月7日 16:48:59
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SGRAかわらばん580号(2015年8月6日)
【1】エッセイ:孫軍悦「山裏人(その1)」
【2】論文募集:第6回日台アジア未来フォーラム(2016年5月高雄)
「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」
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*SGRAかわらばん配信システム更新時に生じた不具合のために、前号が複数配信されてしまったことをお詫びします。
*8月は、以前に配信したエッセイの中で、より広い読者に読んでいただきたいものを再送します。
【1】SGRAエッセイ#467
◆孫 軍悦 「山裏人(その1)」
「どこの出身ですか」と聞かれると、私はいつも口ごもってしまう。母の世代は「小三線」といえば、ある程度わかってもらえるが、私の世代となると、同じ経験を持つ人でない限り、もはや想像すらつかないだろう。
それは、上海から500キロ離れた、安徽省積渓県、黄山という名勝地の麓だった。硯や墨、画仙紙、緑茶が有名で、清朝の大商人胡雪岩、五四文学革命の先駆者胡適、詩人汪静之、そしていまの国家主席胡錦濤など、有名人も輩出している。一方、洪水が多発し、夏になると、見わたす限りの濁流にわずか水牛の角と屋根が浮かんでいる。そのため、故郷を離れる難民が多いことでもよく知られている。
私が幼少時代を過ごしたのは、この安徽省の山奥にある「上海光輝器材厰(工場)」というところだった。もう少し奥には、「万里厰」があって、ほかに「赤星」、「燎原」、「前進」といった工場もある。こうした山奥に作られた工場で働く上海人たちは、自分たちのことを「山裏人=山のなかの人」と呼ぶ。1980年代半ばごろ、工場が廃業し、彼らは一斉に上海に戻り、時計会社や、カメラ会社、製紙会社、洗剤会社、製鉄所、造船所などで働くことになるが、同郷の誼(よしみ)の代わりに、「山裏人」という固い絆で結ばれている。そして、私たちは、「山裏人の子ども」という奇妙なアイデンティティを共有することとなる。
工場は国産ブランドの置時計の部品を作っていた。が、かつて砲弾をつくる軍需工場だったことは一度も聞かされなかった。今思えば、このような交通不便な山奥で置時計を作ることも、近くの山頂に大砲が置いてあるのは山の猛獣を脅かすためだという大人たちの説明も、腑に落ちないものだ。真実が教えられていないことに対して不満をもっているわけではない。当事者は往々にして寡黙なのだ。ただ、現実に疑問を呈する姿勢と矛盾を追究する方法が、私たちの教育には決定的に抜け落ちている。
正確に言えば、工場ではなく、街だった。地元の農民から土地を徴用し、道路、浄水場、マンション、幼稚園、学校、食堂、図書館、保健所など、生活に必要な施設はすべて揃っていた。マンションには水洗トイレがあるが、ガスはない。一階に住んでいたため、母は家の前の空き地を利用して、かまどのある厨房と、鶏やアヒルの小屋を作った。毎朝、アヒルを川に追い込み、夕方に家に連れて帰るのが私の日課だった。卵を産まなくなった鶏を食べて、その骨を細かく砕いて餌にする。雄鶏の尾羽を使って玩具を作る。アヒルの産毛はきれいに洗い、干してからダウンジャケットに使う。
職員は朝方、県の市場から野菜を仕入れる。母は毎朝必要な野菜を日めくりカレンダーの裏に書いて、バスケットに付けてある洗濯挟みに挟んでおく。そして、私が学校に行くついでにバスケットを野菜売り場に預けて、夕方帰るときに取りに行く。今風に言えば、きわめて環境に優しい生活だった。母は石臼で豆乳を作り、お正月には団子用のもち米を挽いていた。一度、挽肉をつくる器械を使ってみたが、器械を組み立てたり洗ったりするのが面倒だったからか、それとも味に不満があったからか、結局包丁で叩くことに戻った。
「過去の生活には戻れない」とよく聞くが、母にとって、「近代化」や「効率化」と「進歩」とは少しも結びつかない。生活に必要であれば、いくらでも「後退」することができる。そもそも、彼女からみれば、「進歩」するのは、経験から培われる智恵のみである。それに従わずに、知識や理屈を信奉するほど愚かなことはないのだ。
都会からみれば、五階建てのマンションに住みながら、かまどを使い、家禽を飼う生活は、かなり奇妙ではあるが、地元の農民の自給自足(自足しているかどうかは別として)の生活とも一線を画している。農民たちは川の向こう側で畑を耕し、上海人は川のこちら側で旋盤を動かす。それぞれの技術で懸命に生きている。時には、農民たちが豚肉を担いで売りに来たり、上海人が水道を引いてあげたり、地元の大工さんに家具を作ってもらったりはするが、互いの交流はそれほど盛んではなかった。
子供の世界も変わりはない。上海人の子どもたちは、川のこちら側の子弟学校で学び、地元の子どもたちは、川の向こう側の学校で学ぶ。山道で偶然出会ってもにらみ合うことがあるほど、互いに「違い」を意識していた。農地が徴用され、工場で働くことになった人もいるが、やはり上海人のなかに完全に溶け込んでいないようだった。あるいは、上海人が彼らを完全に仲間として受け入れていなかったのかもしれない。その子どもたちは、私たちと一緒に子弟学校で学んでいた。おかげで、野いちごのような美味しいものが食べられたが、ツツジの花びらや生のソラマメなど、まずいものも随分食べさせられた。
それにしても、どこかが違うということは、おぼろげながらに分かっていた。こんな山奥にある弾丸の地でも、差別意識は歴然と存在していた。恐ろしいことに、幼い子どもでもこうした差別意識を利用し、悪事を働いたら農民の子に罪をなすりつけることを覚えた。
小学校は、丘の中腹にあった。山は天然の校庭。自然科学の授業はつまらないが、バッタや蟷螂や蛙、そして毎年岩場で咲き乱れるツツジから、生命とは何かを教わった。それは、動物との触れあいの中で命の愛おしさを知るといった奇麗事ではない。むしろ、殺しても殺しても殺しきれないという厳然たる事実から、あらゆる生物に対する畏怖の念が生まれたのである。ペットショップや動物園、水族館に囲まれた子どもたちは、征服者としての人間の傲慢さしか知らない。現代社会は、自然を前に人間が覚えるもっとも基本的な感情の一つである恐怖を、子どもたちから確実に奪っている。
小学校の先生たちは、授業中は先生であるが、放課後は隣人でもある。たとえば、数学の先生は同じマンションの四階、美術の先生は六階、校長先生はむかい側のマンションに住んでいる。三人とも奥さんに尻に敷かれていることも、子どもながらよく知っている。四階の数学の先生の奥さんが「早く夕食の支度を」という先生への伝言を母に頼んだが、使いに行かされた私は怖くて伝えられなかった。そのせいで先生が奥さんに叱られたことを、いまでも申し訳なく思っている。
遠足のときには一人の先生が何人かの生徒と一緒に行動することが決まりだったが、私はいつも美術の先生と一緒だった。二人とも無口で、不器用で、付かず離れず(不即不離)にぼうっと歩いていたことをかすかに覚えている。
低学年のクラスには、まだ十数名の児童がいるが、高学年となると、将来上海市の中学校で良い教育が受けられるように、親たちは心を鬼にして子どもを上海の親戚に預ける。もっとも、預かってくれる親戚がいれば、という幸運な場合に限った話だが。実際、兄にはいたが、私にはいなかった。ただ、私の方がもっと幸運だった。(続く)
<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学教養学部特任准教授。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
*本エッセイは、2008年にSGRAかわらばんで配信したものを、著者の承諾を得て再送します。
【2】論文募集:第6回日台アジア未来フォーラム(2016年5月)
「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」
フォーラムの趣旨:
「日台アジア未来フォーラム」は関口グローバル研究会が毎年台湾で主催する国際会議である。本会議では主にアジアにおける文学、言語、教育、歴史、社会、文化などの議題を取り上げる。 第六回目の開催となる今年は「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」について議論する。
帝国主義と植民地主義の下で進められた東アジアにおける近代化の流れは、それまでの中国を中心とした朝貢システムを崩壊させ、国民国家を中心とした国際関係を東アジアにおいて成立させてきた。西欧的国家モデルをいち早く志向して近代国家の成立に成功した日本は、二十世紀東アジアにおける知の交流を語る際に常に重要な役割を果たしてきた。しかし、近年のグローバル化の急速な進展によって、国民国家制度の恣意性が明らかになり、また様々な分野の活動にみられる多くの越境者たちの存在や異なる共同体における記憶の構築、多文化主義に見られる共生の実践など、多種多様な交流の形態はこれまでのような国家単位における知の交流の形を大きく変えてきている。今日においてこうした議論は大変有意義であると思われる。本シンポジウムでは、こうした東アジアにおける知の交流の変容を、参加者たちの多様な立場とアプローチによって読み解いていきたいと考えている。
主 催:
公益財団法人渥美国際交流財団、文藻外語大学日本語学科、台湾大学日本語文学学科、台湾大学日本研究センター
会 場: 文藻外語大学(台湾高雄市)
開催日: 2016年5月21日(土)
テーマ: 東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―
申請方法: 2015年9月20日までに、(1)「論文發表申請書」と(2)「論文要旨【中国語・外国語】」を送って下さい。申請書は、文藻大学のホームページよりダウンロードしてください。
http://goo.gl/H8qCRU
審査結果: 結果は2015年11月30日までにEメールにてお知らせいたします。
論文提出期限: 2016年3月18日(金)までに完成した論文(8000字以上)を送って下さい。
本フォーラムでの論文発表後、修正・補充・審査を経て、審査合格論文を編集して、台湾大学「日本学研究叢書」(中国語・日本語)において出版する予定です。
詳細は下記リンクより論文募集要項をご覧ください
http://goo.gl/lI3tMu
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★☆★SGRAカレンダー
◇第4回SGRAスタディツアーin福島<参加者募集中>
「飯館村:帰還に向けて」(2015年10月2日~4日福島)
http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/2015/4363/
◇第8回SGRAカフェ
「ジェンダーについて考える必要性(仮)」
(2015年10月24日東京)<ご予定ください>
◇第50回SGRAフォーラム
「青空、水、くらし-環境と女性と未来に向けて」
(2015年11月14日北九州市)<ご予定ください>
◇第9回SGRAチャイナフォーラム
「日中200年―支え合う近代(仮)」
(2015年11月21日北京)<ご予定ください>
★☆★論文(要旨)募集中
◇第6回日台アジア未来フォーラム(2016年5月21日高雄)
「東アジアにおける知の交流―越境・記憶・共生―」
投稿締め切りは2015年9月20日です。
◇第3回アジア未来会議「環境と共生」
(2016年9月29日~10月3日、北九州市)
http://www.aisf.or.jp/AFC/2016/
奨学金・優秀論文賞の対象となる論文(要旨)の投稿締め切りは2015年8月31日です。
一般の論文・小論文・ポスター(要旨)の投稿締め切りは2016年2月28日です。
☆アジア未来会議は、日本で学んだ人や日本に関心がある人が集い、アジアの未来について語る<場>を提供します。
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◇配信されたエッセイへのご質問やご意見は、SGRA事務局にお送りください。事務局より著者へ転送します。
◇皆様のエッセイを募集しています。SGRA事務局へご連絡ください。
◇SGRAエッセイやSGRAレポートのバックナンバーはSGRAホームページでご覧いただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/date/2015/?cat=11
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