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GIGLIO “‘Ethnocentrism’ and ‘De-ethnocentrism’ in Religion ~On the Conditions of World Religions~”

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SGRAかわらばん1034号(2024年10月10日)

【1】エッセイ:ジッリォ「宗教における『自民族中心主義』と『脱民族中心主義』~世界宗教の条件について~」

【2】寄贈本紹介:閔東曄『植民地朝鮮と〈近代の超克〉:戦時期帝国日本の思想史的一断面』
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【1】SGRAエッセイ#775

◆ジッリォ, エマヌエーレ ダヴィデ「宗教における『自民族中心主義』と『脱民族中心主義』~世界宗教の条件について~」

私は仏教思想と仏教的な信仰に興味を持ったキリスト教文化の西洋人だ。「キリスト教思想と仏教思想」、「キリスト教的な信仰と仏教的な信仰」を両方とも自分の今の思想と精神性の大事な一部*だと思っている。

昔、日本の多くの仏教者とお話をした時、私はよく次の二点を述べていた。仏教思想と仏教的な信仰を理解し受け入れるためには、キリスト教文化の西洋人としての自分を超えなければならない(東洋的なものを西洋的なカテゴリーで理解しようとするのではなく、東洋的なカテゴリーで理解すべきだ;相手のことを相手のカテゴリーで理解すべきだ)、と。しかし、東アジアの仏教者側では何が待っているのだろうか。私のような人を迎えるための「心の準備」ができているのだろうか。私のように「自分を超える」という心構えができているのだろうか、と。

多くの相手は、私が言おうとしたところのポイントをあまり理解できなかった気がする。その時から何年もたった今、特に後段の「心の準備」ついて詳しく述べたい。私はこれまで多少の無理をしてでも、よく異文化の相手に合わせてきた人だが、今回は純粋にキリスト教文化の西洋人として語りたい。

キリスト教文化の西洋人から見れば、キリスト教以外の宗教はまだ「自民族中心主義(エスノセントリズム)」に思える。

「自民族中心主義」とは、自分たちの育ってきたエスニック集団(族群)の言語と伝統文化や宗教などは基本的に自分たちのものだとか、自分たちにしか理解できないとか、万が一理解されてしまった場合、逆に嬉しくないとか、悔しいとか、大事なものを関係ない人たちに持っていかれてしまったとか、盗まれてしまったとかいう感覚のことだ。これは体験的な定義だ。文化人類学や社会心理学の世界では他にも定義が存在*している。

宗教の世界では、「自民族中心主義」の典型的な特徴はどのようなものなのか。私が触れた日本仏教の場合は次のような話になる。

特徴その一。世界のどこの人であろうと、日本語でお祈りしなければならない。日本の読み方でお経を唱えなければならない。本尊は仏像であれば、アジア人の顔をしている。文字曼荼羅(まんだら)であれば、漢字で書かれていて、何と書いてあるかすぐには分からない。バイリンガルと認められている私にとって、この点はむしろ好都合だが、そうでない外国人にとっては大変な壁だ。外国語で祈らなければならないことを受け入れられる人間は今の世界でもあまり多くない。

特徴その二。聖典(経典、宗祖の著作、後の歴代法主や学僧たちの注釈書)はすべて外国語に翻訳されているわけではなく、一部だけだ。多くの注釈書は翻訳されていないし、教団自体が翻訳させたくないと言っているケースすらある。理由は様々であろう。私が聞いているのは、「外国人には理解できないから混乱させてしまうかもしれない」というものだ。

特徴その三。海外でも教団のトップにはやはり日本人がいなければならず、外国人はあまりいない。その宗教が生まれ発展した人種の人しかその宗教のトップにはなれない。外国人がなるという可能性すらまだ考えづらい。

現代のキリスト教文化の西洋人には、これらはすべて自民族中心主義の典型的な特徴に思える。

このようなことを言っている者たちがいる(キリスト教文化の西洋人ではない者たちだ)。「自民族中心主義」とは西洋人たちが自己批判で考え出した概念で、西洋人でない者たちとは関係ない、と。西洋的な概念で、例えばアジア人の文化と歴史とは関係のないものだ、と。

私なら本能的にこう答えたくなる。人種の違いを乗り越えるということは、西洋的な概念だけなのだろうか。人種の違いを乗り越えるということは、平和的な人類に進んでいくための当然で自然なステップではないだろうか。

このようなことを言っている者たちもいる。我々の宗教も万人に開かれているよ、と。しかし、上記のような自民族中心主義的な特徴はそのまま残っている(その宗教が生まれ発展した人種の人たちと同じ言語で祈らなければならない、など)。

仏教文学関係の資料を日本人の研究者と同じやり方で日本語で研究してきた私は、日本の仏教者を名乗る一部の者たちに色々言われてきた。まだ仏教関係の難しいテキストを読めていなかった時は「あなたには難しいでしょう」と。読めるようになって研究上成果を出せるようになった時は急に変わって、このようなことを言われた:「日本的なものは日本人にまかせて、あなたは日本人たちがどのように日本的なものを研究しているか、それだけを研究してくれればいいんだ。イタリア語で。イタリアで」とか、「なんでこんなところに来るんだ?!あなたは他のところで違うこともできるはずなのに」とか、「日本的なものを日本人よりも理解できると言おうとしている。あなたはそう思われる」とか(意味について様々な解釈が可能であろう)。

私は博士号を取得するためにやっていただけで、西洋人として日本人の宗教者たちに何かを見せようなど、少しも思っていなかった。「西洋人」「日本人」という区別もしていなかった。区別していたというなら憧れていたからだ。一部の人にそのように思われていたと聞いた時は寝耳に水だった。

東アジアの仏教者たちが昔受けてしまったトラウマのようなものが関係しているかもしれない。19世紀末には、西洋人による現代的な仏教学研究が誕生する。「社会進化論」*と植民地主義の時代だ。この時代の、東アジアの仏教者に対する西洋の多くの学者の態度は次のようなものだったと言われる。仏教はインドで生まれた、と。元々インドヨーロッパ語族の人たちの宗教だ、と。つまり、我々西洋人の先祖たちの宗教だった、と。仏教はその後、インドから東アジアと東南アジアに移動し、これらの地域の異質な文化と混ざってしまい、変質した、と。よって、本当の仏教はインドの仏教だけだし、仏教の本当の本質はインドヨーロッパ語族の正当な継承者である我々西洋人たちにしか理解できないであろう*、と。東アジアの仏教者たちはこのような態度をとられて嫌な思いをされたであろう。ここは、その時代の西洋人たちが悪い。この歴史から考えれば、日本の仏教者を名乗る一部の者たちが私に言っていたことは理解できる。「なるほど、最初はそう思われるだろうな。仕方ないかもしれない」と。

私が日本で最初にお付き合いした方は、ご家族の信仰の関係で仏教者だった。今のキリスト教会は家庭事情があるのであればキリスト教以外の信仰も同時に持っていて良い。キリスト教を否定さえしなければパートナーの信仰も受け入れて、同時にやっていて良いということを許してくれる。他の宗教はどうか。

前ローマ法王ベネディクト16世はこのようなことまでおっしゃっていた。「東洋や、キリスト教以外の偉大な宗教に由来する本物の瞑想法の実践は、混乱している現代人にとって魅力的であり、祈る人が外的なストレスの中にあっても、内的な平安をもって神の前に立つことを助ける適切な手段となりうる」*と。

キリスト教以外にもこのような姿勢はあるのだろうか。東アジアの仏教者たちはキリスト教的な瞑想法の何かを取り入れようと考えたことがあるのだろうか。

キリスト教には他に、「聖霊降臨の神秘」という出来事がある。聖霊は十二人の使徒たちに下り、そうすると使徒たちは突然に世界の言語を色々と話せるようになる。聖霊は、世界の全ての言語で全ての人に福音を伝えてほしいと最初から考えておられるようだ。アラム語だけでなければならないことはない。へブライ語だけでも、ギリシャ語だけでも、ラテン語だけでなければならないこともない。これは最初から霊的な次元で決まっているはずで、使徒たちの言葉にも現れている。異邦人(外国人)とそうでない者とか、奴隷とそうでない者たちとか、もうそのような区別など存在しない*、と。

キリスト教の「脱民族中心主義」は最初から始まっているはずだが、歴史的に本格的に始まるのは、おそらく東西教会の分裂(11世紀)の時であろう。そこから東の教会(正教会)はラテン語と違う言語で色々とやり始める。正統派総主教ももちろん、ローマの人ではない。その次は宗教改革(16世紀)の時であろう。M.ルターは聖書をドイツ語に訳す。プロテスタント教会の誕生だ。ローマ教会では、まだラテン語以外の言語を使ってはだめだという時代だった。最後に、カトリックの世界では第2次バチカン公会議(1962年)の時代がやってくる。その時はカトリックの世界でも次のようになる。世界各国ではその国の言語でお祈りして良い。ラテン語でなくとも良くなる。ごミサや礼拝も、それぞれの国の言語で行ってもいい。聖書はもちろん、教父たちや聖人たちの著作も全て、世界の主な言語に翻訳される。今はアジア人やアフリカ人の枢機卿もいらっしゃるし、みな法王にもなれる。

このようにキリスト教の世界では「脱民族中心主義」は進んでいる。これこそ世界宗教であるための条件ではないか(私の中の「キリスト教文化の西洋人」の生の声だ)。

キリスト教以外の宗教も、世界宗教か海外での人間関係の拡大を目指すのであれば、キリスト教会の歴史上の様々な分裂と争い、自民族中心主義的な過ちの歴史から学び、似たような「脱民族中心主義」を成し遂げるように努力することをお勧めしたい。でないと、家庭事情や人間関係のような理由がなければ、現代のすべてのキリスト文化の西洋人にとって信仰として受け入れることがまだ難しいであろう。せっかく西洋の主な精神性では「脱民族中心主義」が進んでいるのに、再び異国の自民族中心主義的なものに魂のケアーを任せるのか。逆戻りではないか、と。

海外での人間関係の拡大や世界宗教を目指している各教団に告げたい。その目的を実現するということは、西洋も含め海外で何人もの信者を持てば良いだけの話ではない。現代のキリスト教文化の西洋人たちの感覚のことも慎重に考えていただきたい。そして、昔の西洋人たちと同じ過ちをしてほしくない。世界では、すぐには理解できない遠い言語で祈ろうとして、「自分はいったい何をやっているんだろう」と違和感を持ち続ける者たちもいる。「重要なテキストはまだすべて翻訳してくれているわけではないのか」と不信感までいだく者たちもいる。「結局、その教団のトップにはその教団が生まれ発展した人種の人たちしか行けないのか」と差別主義を疑う者たちすらいる。
私は、翻訳の点ではいつでも協力したい。

海外での布教と人間関係の拡大を考えている各教団のお役に立てればと願いつつ

Giglio(ジッリォ), Emanuele(エマヌエーレ) Davide(ダヴィデ)
東京、2024年9月28日

*注釈は下記リンクをご覧ください。
https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2024/10/2024-23Giglio_annotations.pdf

注釈付き本文は下記リンクからダウンロードしていただけます。
https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2024/10/2024-23Giglio_essay-with-annotations.pdf

<エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ Emanuele_Davide_GIGLIO>
渥美国際交流財団2015年度奨学生。2007年にトリノ大学外国語学部・東洋言語学科を首席卒業。外国語学部の最優秀卒業生として産業同盟賞を受賞。2008年4月から2015年3月まで日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2014年に日蓮宗外国人留学生奨学金を受給。仏教伝道協会2016年度奨学生。2019年6月に東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室の博士課程を修了し、哲学の博士号を取得。日本学術振興会外国人特別研究員。現在、身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。医科大学にて哲学講師・倫理学講師・国際コミュニケーション講師。工科大学にて日本語講師。NHKバイリンガルセンター所属。

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【2】寄贈本紹介

SGRA会員で都留文科大学准教授の閔東曄さんから新刊書をご寄贈いただいたのでご紹介します。

◆閔東曄『植民地朝鮮と〈近代の超克〉:戦時期帝国日本の思想史的一断面』

三木清、高坂正顕、高山岩男、申南澈、金南天、朴致祐などの転換期を生きた知識人たちは、いかに「近代」と向き合い、それを乗り越えようとしたのか。戦時期日本で大きな影響力をもった「近代の超克」をめぐる議論を、同時代の植民地朝鮮との関係に焦点を当てて読み直し、一国史を超えた歴史意識を剔出する。抵抗か協力かという二元論的な枠組みを問いに付し、帝国主義の構造を再考する画期的な試み。

A5判/354ページ/上製
ISBN978-4-588-15139-2 C1022
価格5,500円 (消費税 500円)
発行年月2024年09月

詳細は下記リンクをご覧ください。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15139-2.html

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