2017蓼科旅行報告
6月30日(金)少々曇り、新宿から出発。美味しいパンのバイキングランチを済ませてから、諏訪神社でお参りする。湿った空気を歩き、巨大な樹木を眺め、お守りも手に入れ、最初の記念写真。そして、いよいよ雁行形をしているような大興蓼科山荘に到着。部屋の窓から延々と森が見える。鹿は見えないが、いるらしい。夜の共同お風呂、楽しみ。
夕方は、グループに分けて、話し合いが始まる。一歳の子供も、奨学生やラクーンも、経歴の長い教授も、みんな交じりながら、お互いを改めて知る。そして、一つ面白いアクティビティを行う。自分の背中に白い紙を張ってもらって、そこに他の人が自分について思っている・感じている一言、いわゆる第一印象のようなことを書き込む。自分のことを動物や色などで例えるのならば何になるとか。自分も一生懸命色ペンを手にして、他の人の背中に張ってある紙に何かを書き込んでいる。まじめだとか、美人だとか。ニコニコしながらニコニコされながら、書き込んでいるし、書き込まれてもいる。いつも知りたいけど知りえない言葉。刺青でもないのに、他者の視線が自分の体の上に実際文字化されているという意外な体験。最後に、自分の紙を背中からとって、自分の意見を加えながら発表をする。
7月1日(土)、晴れ。一日かけて平和について考える。平和といっても実際なんだろう。ソウル大学副教授南基正先生が講演し、映像、音楽、文学、絵画など多彩な資料を見ながら、特に20世紀の世界中における戦争と平和のことを考えさせられる。国際政治・国際論におけるリアリズムとリベラリズムという二つの考え方を紹介し、国際政治が戦争を主な研究対象にすることから、平和を研究対象にするようになってきているという変化を語る。様々の言語と宗教において平和の定義を探り、国際政治の中だけではなく、一人一人の心の中における平和の概念を追求する。一つの提案としては、他者、特に少数派や弱い者の視線に対する理解としての平和が上げられる。学者として教授として一人の人間として真剣に考える南先生の姿が伺える。平和は、自分の中にはあるのか。自分と他の人は別ものなのか、実際繋がっているのか、主観性という概念まで哲学的に話が広がる。
午後は、当てられたテーマについてグループごとに話し合いが行われる。「銃と私」「りんごと私」「靴下が出来るまで何人が関わるのか」「パソコンを作るには何人が必要なのか」。課題とそれぞれのグループは四つである。話し合った結果は、ポスターやパワーポイントを使ったプレゼン、演劇という形で皆に発表される。りんごグループに所属する一人として、りんごダンスの説明などの弁士を勤める。りんごは、生活文化の一部であるという果物ではあるが、主観性など哲学の問題を考える上にも役に立つことがわかる。そして、パソコンでも靴下でも、人と人の間の無限な繋がりの実りであるということも改めて痛感する。平和とは、繋がっていないようで繋がっているような発見。
夕御飯の後は、日本メディアにおける北朝鮮のイメージについて特別講演会がある。北陸大学の李鋼哲先生は、皆の意見を聞きながら、北朝鮮を訪ねた経験の話もふくめて、ここ数年の北朝鮮の外交を説明する。とても印象に残る話である。
7月2日(日)晴れ。朝御飯の後、みなが集まる。風邪をひいてしまったせいで、欠席するが、瞑想をしてから、この三日間を振り替えったそうだ。美味しいご飯、お互いに打ち解けた心、話し合った問題点、平和のイメージ。
お別れタイムに、大興蓼科山荘の担当者夫婦にお礼の笑顔をし、手を一生懸命振って、森のイメージを心にメモっておく。そして、帰り道にローカルなスーパーによって果物の買い物に夢中になる。長野県洋ナシジュースを味わいながら、暑い東京に到着。涼しい蓼科の空気は夢か現か・・・。
当日の写真
当日資料
(文責:マグダレナ・コウオジェイ)